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CCCJの前身である「カナディアン・ビジネスマンズ・アソシエーション・イン・ジャパン(CBAJ)」は、1975年に設立された。当時、日本におけるカナダ人コミュニティは非常に小さく、国際電話は高額、情報は乏しく、在日カナダ人同士の交流はこれしかなかった。
1970年の大阪万博を機に、来日するカナダ人は増加し、企業も東京に拠点を設けはじめたが、日本の商習慣に苦慮するケースが多かった。そうした中、「同じ苦労を分かち合える場所」として生まれたのがこの会であった。
1978年には、現在まで続くCCCJの代表的イベント「メープルリーフ・ボール」が初開催され、東京のカナダ人社会に文化的な華やかさと一体感をもたらした。その後、特に若手カナダ人の交流やキャリア構築を支援する目的で設立された「東京カナディアンクラブ(TCC)」は、第一木曜日のパブナイトを名物とし、30年以上にわたって活発な活動を展開した。現在、このTCCは活動を終えたが、CCCJがその精神を受け継ぎ、より広い対象に向けた交流の場を提供している。若手や新たに来日したカナダ人だけでなく、日本人参加者にとっても、CCCJは加日の文化・ビジネスを繋ぐ懸け橋となっている。
「商工会議所」という呼称は古めかしいが、海外での事業展開においては今なお貴重な存在である。1975年の日本では英語が通じず、官僚制度も閉鎖的であり、カナダ人事業者は孤立していた。CCCJはそうした環境で、経験者の知見とユーモアをもって新規参入者を支援し、ビジネス上の障壁を乗り越える助けとなった。
また、CCCJは他国の商工会議所とも積極的に連携し、ネットワーキングの場を広げた。イギリス、オーストラリア、アメリカなどの商工会議所との合同イベントも多く開催され、日本の官僚や業界団体の中で、英語を話し、かつ親切な担当者の情報を共有し合うなど、実務的なサポート体制も構築されていた。
加えて、当時カナダへの赴任経験を持つ日本人ビジネスパーソンの殆どが、カナダ・ファンとなって帰国したことも大きな追い風となった。彼らは帰国後もCCCJのイベントに参加し、加日のビジネス・文化交流の橋渡し役を果たしたのである。時を経て、カナダ政府や企業界は経済低迷期に日本への関心を失いかけたが、近年では再び日本への注目が高まりつつある。外交や経済の変動を超えて、地道に関係を繋ぎ続ける存在として、商工会議所は今日もその価値を失っていない。次なる半世紀も、カナダと日本の絆がより一層深まることを、心から願っている。
1991年、東京・青山通りに新たに完成したカナダ大使館の開館は、加日関係の歴史において象徴的な出来事であった。文化、外交、商業機能を兼ね備えたこの複合施設は、単なる建物以上の意味を持ち、カナダが日本との関係をいかに重視しているかを示す明確なメッセージとなった。この地を手にした背景には、実に60年以上前にさかのぼる、一人の外交官の卓越した先見の明がある。
1929年、モントリオール出身の弁護士であり実業家でもあったハーバート・マーラー卿は、カナダ初の対日外交代表(当時の呼称は「公使」)に任命された。彼は当時の英国外交官たちの見下すような態度にも臆することなく、交渉術と資産形成に長けた実務家として、東京におけるカナダの存在感を確立しようと動き出した。
マーラーが目をつけたのは、赤坂御用地の向かい、現在の青山通り沿いに広がる名門・青山家の邸宅であった。1932年、円安と不況により日本の不動産価格は下落しており、「幽霊が出る」との噂も手伝って、日本人の買い手がつかなかった。そうした中、マーラーは40万円(当時のカナダドル換算で20万ドル程度)でこの約2ヘクタールの敷地を購入した。政府が難色を示す中、自身の私財を用いて取得し、「すでに購入した」と報告したとされる逸話は、彼の行動力と執念を物語る。
その後、1933年にはマーラーハウス(公邸)が完成し、カナダ外交の基盤がこの地に築かれた。特筆すべきは、その後数十年を経てバブル経済が日本を席巻した1980年代末、同地の資産価値が急騰したことである。一時はカナダ国内でも売却論が持ち上がったが、結果としては資産価値を最大限に活かす“民間資金導入型プロジェクト”として、再開発を選択。三菱信託銀行の資金提供、清水建設の施工による、外交・文化・商業機能を兼ね備えた現在の大使館施設が完成した。この建物の設計を手がけたのは、日系カナダ人建築家のレイモンド・モリヤマである。外交施設・商業施設・公共スペースを一体化し、かつ隣接する赤坂御所や公園に日陰を落とさないよう高度な建築技術が求められた。その成果として完成した現在の大使館は、外交的にも建築的にも高く評価されており、カナダの文化的存在感を東京の中心において静かに、そして確実に発信し続けている。
20世紀後半、カナダと日本の関係において、深く心に残るもう一つの重要な出来事があった。それは、私たちが皇族とのかけがえのない絆を授かったことである。
1978年、三笠宮家の第三王子であられる高円宮憲仁親王殿下は、カナダ・オンタリオ州のクイーンズ大学に留学し、法学を学ばれた。在学中にはカナダ各地を訪問され、自然や文化、そして人々とのふれあいを通じて、カナダに深い親しみと敬愛の念を抱かれるようになったという。また、アイスホッケーのファンにもなられた殿下は、帰国後もご縁が途切れることなく、カナダ大使館主催のイベントにもたびたびご臨席くださった。
1984年、大使公邸でのあるレセプションの席上、殿下は鳥取久子さん(当時29歳)と出会われた。久子さんは三井物産勤務の父を持ち、少女時代をイギリスなど海外で過ごされ、1975年にはケンブリッジ大学を卒業された才媛。英国仕込みの気品ある佇まいと、フランス語にもご堪能なことから、まさに“カナダのプリンセスにふさわしい”と評されていた。
この運命的な出会いを経て、同年お二人はご成婚され、それ以降、両殿下はカナダとの交流を生涯にわたって大切にしてくださった。特にイヌイット・アートとの出会いにおいては、その芸術性と精神性に深く敬意を抱かれたという。日本の民藝に通じるものを感じられたとも語られ、北極圏への2度の訪問を通じて多くの作品を収集された。その結果、日本国内でも有数のイヌイット彫刻・版画コレクションが築かれたのである。
また、1985年から2001年にかけて、両殿下はメープルリーフ・ボールの主賓として毎年このイベントにお越しになり、おとぎ話のような華やかさと魔法を添えてくださった。とりわけ、会場のダンスフロアでお二人が軽やかに踊られる姿は、見る者すべての心に深く刻まれる光景であった。
しかし、2002年11月21日、突然の悲劇が襲った。カナダ大使館のスカッシュコートにて、当時の駐日大使ロバート・ライト氏と試合をされていた殿下が、急性心筋梗塞により47歳で薨去されたのである。大使館敷地が国際法上、カナダの主権領域とされていることから、殿下が最期を迎えられた場所は“カナダの地”であった。この事実は、加日双方にとって計り知れない衝撃と深い悲しみをもたらした。殿下のご功績を讃え、大使館内のアートギャラリーは“Prince Takamado Gallery”と改称され、さらにトロントのロイヤル・オンタリオ博物館においても同様の敬意が表された。
そして今もなお、久子妃殿下はそのご縁を大切にしてくださっている。親王殿下の薨去から20余年を経た現在も、妃殿下は毎年メープルリーフ・ボールにご臨席くださり、さらにはカナダを幾度もご訪問なさるなど、その絆は色褪せることがない。ご自身の北極圏での体験をもとに執筆された絵本『Lulie the Iceberg(氷山ルリの大航海)』も、カナダと妃殿下との特別な繋がりの結晶である。
この深いご厚情とご愛情に、私たちは心から感謝の念を抱いている。